沖縄論考

日本と沖縄のことについて考えていきます。

沖縄に基地を押し付ける「本土人」(1)

沖縄県の県土面積は日本全国の0.6%を占める。そこに、日本全国の米軍専用施設の約74%が集中している。この度、県北部にある演習場の広大な土地が返還され、いわゆる「負担軽減」が実現するが、それでも負担比率は71%までしか減らない。

 

なぜ、沖縄にこれほどまでに多くの米軍基地が集中しているのか。「本土」の人間の多くは、そこには「やむを得ない事情」があると考えている。その理由としては、

 

①中国への備えなど、日本の安全保障上の必要性から、地政学的優位な沖縄に、米軍基地を集中させざるを得ない。
②沖縄経済は米軍基地に依存しており、基地がなくなると沖縄自身が困る。
③米軍基地をどこに置くかは米国の意向によって決まる。日本に決定権はなく、従わざるを得ない。
沖縄戦や米軍占領などの歴史の流れの中でそうなった。やむを得ない。

 

などが挙げられる。

 

「本土」の人々の多くは、一部地域を除けば、自分達の住む町に米軍基地を抱えておらず、基地問題そのものが身近でないため、基地に関する話題にはおおむね無関心であり、何かのきっかけで多少の関心を引いたとしても、所詮は「遠い沖縄の話」であり、自分とは関係ない、他人事であるように感じており、深く掘り下げて考えることもしない。

 

そして、「なぜ沖縄に米軍基地がここまで集中しているのか」と問われたら、大部分の人は、上の4つのどれかを答えて済ませようとする。

 

しかし、現実には、これら①~④の理由は、沖縄に74%もの基地を集中させる理由としては成り立たない。

 

①について言えば、沖縄に置かれている米軍基地面積のうち、約7割を占める海兵隊の施設については、軍事的な観点からは、沖縄に置く必要はないことが、日米の専門家の研究や政治家の発言からも明らかになっている。沖縄県以外の「本土」のどこかの県に置いても、海兵隊の機能は維持することができ、軍事的な観点から、海兵隊基地が沖縄になければならない理由はない。

 

すなわち、移設問題で揺れる普天間基地も、辺野古に移さなければならない理由は、本来なく、他にいくつもの選択肢があり得るのである。

 

歴代政府がそれでも「沖縄県内移設」「辺野古移設」に固執するのは、「本土のどこにも受け入れ先がない(自治体、住民ともに受け入れたがらない)」という「政治的な理由」による。

 

辺野古移設が、普天間基地の危険性除去を実現するための唯一の選択肢」という、安倍政権の唱えるお題目は、実際には「嘘」であり、辺野古移設は、辺野古以外に選択肢がないからそうするのではなく、辺野古以外の選択肢を、「本土」の民意を背景に、【意識して採らない】という主体的な意思決定に基づく行動である。

 

そして、安倍政権のそのような行動を、過去3度に及ぶ国政選挙の度に支持し、政策として実現させているのは、我々「本土」の国民である。

 

沖縄に米軍基地の負担を押し付けているのは、「本土」の人間である私たち自身なのである。

 

では、海兵隊以外の基地、例えば、「極東最大の空軍基地」と呼ばれる嘉手納基地はどうか。嘉手納基地については、普天間などの海兵隊基地と異なり、沖縄のもつ地政学的優位性を背景に、極東地域における抑止力として機能しているとされる。

 

しかし、「故にそれを沖縄に置く」か「そうではあるが、沖縄には置かず、別の地域に置く、もしくは別の安全保障の方法を考える」かは、やはり我々が選択する問題である。

 

地政学的理由とは自然条件のように、人の意思と無関係に存在するものではなく、我々の意思が生み出すものである。

 

この点からも、沖縄への過重な基地負担の集中は、明らかに、我々自身の意思に基づいて沖縄に押し付けられたものであり、そうである以上、我々の意思次第で、それを変えることも可能である。

鶴保発言の問題点

「『土人』発言問題」に関する鶴保沖縄相の発言について考えてみたい。
同氏の一連の発言は以下である。

 

「これを人権問題だと捉えるかどうかは、言われた側の感情に主軸を置くべき」
「県民の感情を傷つけたという事実があるなら、しっかりと襟を正していかなければならない」
「これが人権問題だと考えるのではなく、これが果たして県民感情を損ねているかどうかについて、虚心坦懐に、つぶさに見ていかなければならない」
「今このタイミングで『これは間違っていますよ』とかいう立場にない」
(2016年10月21日記者会見)

 

2016年11月8日の参議院内閣委員会では、共産党の田村氏の「逮捕権を持つ公務員、警察官が市民を侮蔑したことは人権問題ではないのでしょうか」との質問に対し、

 

「人権問題であるかどうか、第三者が一方的に決めつけるのは非常に危険」
言論の自由はどなたにもあり、状況的判断もある。人権問題の一番のポイントは、被害者、差別発言を受けた方の感情に寄り添うことだが、その感情に対して、誰が、どういう理由でこれが差別であると判断するかについては喧々諤々の議論がある」
「そうした重い判断を、私個人が大臣という立場でこれは差別だと断じることは到底できず、いまもまだ議論は続いているという認識をしている」

 

と述べ、

 

「(「土人」という言葉は)差別的な侮蔑用語以外に使われた例を聞いたことがない」と追及されると、

 

「それこそ私は判断できるものではないと思っている」
「土人という言葉が出てきた歴史的経緯には、様々な考え方がある。現在、差別用語とされるようなものでも、過去には流布していたものも歴史的にはたくさんある」
「そういう意味においても、土人であるということが差別であるというふうには、私は個人的に断定できません」と返した。
 

鶴保氏は11月10日の参院内閣委員会理事懇談会でも、「ある事項が人権問題かどうかについて、第三者が一方的に決めつけることは非常に危険ではないか。言われた側の感情を主軸において判断するべき」と持論を繰り返し、翌11日の記者会見でも、発言の撤回に応じない姿勢を示した。

 

同氏の主張を整理すると、以下のポイントにまとめられる。

 

①「土人」発言が人権問題かどうかは第三者には判断できない。
②人権問題かどうかを判断するには、差別発言を受けた人の感情を主軸に判断すべきだが、その感情に対し、誰が、何を根拠に判断するかは様々な議論があり、自分には判断できない。
③現在、差別用語とされるようなものでも、過去には(差別発言ではないものとして)流布していたものもたくさんあるため、それが差別かどうかは判断できない。
④(大臣という)自分の立場では判断できない。

 

要するに、「自分には『土人』発言が人権問題もしくは差別なのかどうか判断できない」と繰り返し主張している。

 

結論から言うと、鶴保氏が上のように考えているならば、彼は閣僚として不適格であるだけでなく、政治家として失格である。このような人間を国民の代表として選んだ我々は、その不明を恥じなければならないし、この考え方を改めない限り、次の選挙で彼を当選させてはいけない。

 

鶴保氏の一連の発言の何が問題か。

 

彼は繰り返し、「判断できない」と述べているが、そもそも、ある言動が「差別」であるかどうかは、誰かが判断するものである。差別とは、温度計や体重計で測れるようなものではない。今回の件で言えば、「本土」から派遣された機動隊員が沖縄人に対して、「土人」という言葉を吐いた。それが差別であるかどうかは、我々が見て「判断する」のである。

 

その判断の根拠には、「差別発言を受けた側」「言われた側」の感情がある(鶴保氏本人も似たようなことを言っているが)。我々は、「土人」呼ばわりをされた沖縄の人々の感情を汲み取り、推察し、その声に耳を傾け、そこからその発言が差別であったのかどうかの判断材料を得る。

 

同時に、「土人」という言葉が過去に使われてきた歴史的背景と、現在「土人」という言葉が、どういう場面で、どういう意図で使われているかも判断材料となる。

 

それで言うと、「土人」という言葉は、少し歴史を紐解けば、あるいはネット空間をのぞいて見れば、歴史的に「本土」の人間から沖縄人やアイヌ人に対する蔑称として用いられてきたという事実があり、現在でも、沖縄人に対する蔑称として一部のネット空間で用いられていることは、容易に確かめることができる。

 

当然ながら、これは鶴保氏にも確かめることができる。にもかかわらず、「できない」と主張するのは、実のところ、「できない」のではなく、「やらない」「やろうとしない」だけである。

 

もしかすると、鶴保氏は、「差別かどうかを判断する客観的な基準がない」「差別された側の感情を判断するための客観的な方法論がない」ことを理由に、「誰がどういう理由で判断するのか定まっていない」、故に「判断できない」と言っているのかもしれない。

 

が、先にも述べたように、ある言動が差別であるかどうかを判断する客観的な基準や方法論などそもそも存在しない。だからこそ判断が必要なのだ。ある言動が差別かどうか判断し、「反対し、非難し、やめさせる」か、それとも「賛同し、擁護し、守る」のか、どちらかを決めなければならない。

 

差別が疑われる言動に対して、誰かが「これは差別だ」と判断しない限り、その言動が「差別的行為」として問題になることもなければ、批判の対象になることもない。

 

つまり、「判断を保留する」「判断しない」ということは、仮にその言動が差別であり、それによって傷ついている人がいた場合、その差別を結果的に擁護し、差別者が被差別者を差別するがままにし、被差別者の被害、傷を拡大させることに加担する可能性がある。

 

だから、差別が疑われる、「差別ではないか」と議論されている事柄については、それが差別なのかどうか、自分なりに材料を集め、判断し、それに対する態度を明らかにしなければならない。差別だと判断したなら、その言動を非難し、やめさせなければならないし、差別でないと判断したなら、その言動を擁護すればよい。

 

特に、鶴保氏のような政治家、まして閣僚は、権力者であり、国の政治的意思決定に直接的な影響力をもち、その言動は、国民世論に対しても一定の影響力をもつ。鶴保氏が、差別を許さない立場を採るのか、差別を擁護する立場を採るのか、あるいは、「判断しない」ということを通じて、差別と疑われる行為を野放しにする立場を採るのかは、一民間人の立場にはない、重要な意味と影響力をもつ。

 

そのような重要な立場にありながら、「差別かどうか」の判断を故意に保留し、判断を下し、下した判断に対してアクションを採るという責任から逃れ続けている鶴保氏には、閣僚、政治家という権力者の立場に立つ資格はない。

 

ついでに言うと、鶴保氏は、「人権問題かどうか第三者が一方的に決めつけるのは非常に危険」と述べているが、「土人」という言葉が、「『本土』の人間対沖縄人」という対立構造の中で、「本土」の人間から沖縄人に対する蔑称として使われてきた歴史を顧みれば、我々「本土」の人間は決して「第三者」ではないばかりか、当事者であり、当事者として、これが差別かどうか、責任をもって判断しなければならない立場にある。

 

我々は、差別という人権に関わる問題に対する「判断」から逃れ、結果的に、差別に加担するような人間に、政治を任せてはいけない。

「土人」発言に思う(3)

最後に、「土人」発言と警察権力の問題について考えてみたい。

 

機動隊員による「土人」発言のあった直後、その「派遣元」である大阪府の松井知事は、ツイッターの中で、「(土人という表現は)不適切」としながらも、同機動隊員に対し、「一生懸命職務を遂行していた」との理由で、「出張ご苦労様」と述べた。

 

その発言が批判されると、改めてメディアの取材に応え、「『土人』というのは差別的意味がある。だから、差別的意味がある発言を認めないし、反省すべき」としながらも、「反対派が混乱を引き起こしている」「反対派の反対行動もあまりにも過激」「罵詈雑言が飛び交い、非常に強硬な人達がいて、無用な争いが起こっている」「その中で、メディアを含めて、彼個人を特定して叩くのはやり過ぎ」という旨のコメントをした。

 

「差別発言はよくないけれども、反対派も機動隊員に罵詈雑言を浴びせているのだから、機動隊員の差別発言だけをたたくのはおかしい」ということである。

 

産経新聞10月21日朝刊の「政論」でも、「反対派の機動隊員に対する罵詈雑言を聞いたことがあるか?『土人』発言招いた沖縄の以上空間」と題し、「機動隊員が『土人』と発言したことは何から何まで間違っている」としながら、機動隊員に対する反対派の暴言の例を取り上げ、「問題は、言葉の暴力に満ちた空間の存在が放置されてきたことにある」と、反対派の「言葉の暴力」を問題視している。

 

また、沖縄県議会は10月28日、機動隊員による「土人」「シナ人」発言に抗議する意見書案を賛成多数で可決したが、野党の自民党は反対するとともに、反対派による警察官に対する暴言を列挙した意見書案を提出した。

 

その中には、確かに、聞くに堪えないような激しい表現も含まれており、これらが本当に反対派の口から警察官に対して浴びせられたとするなら、いくら警察という権力機構の職員であったとしても、警察官も機動隊員も一人の生身の人間であるから、決して愉快な気持ちにはならず、それに対して心理的なプレッシャーを感じるのも、無理からぬことではあろう。

 

同じ時期に、Youtube上では、沖縄平和運動センター議長の山城博治氏を含む反対派が、沖縄防衛局の職員らを取り囲み、帽子や眼鏡を奪ったり、無理やり座らせたりする映像が流された。

 

これらを受け、一部のネット空間では、よりあからさまに「土人」発言を擁護するコメントが流れている。すなわち、「『土人』発言も仕方ない」「『土人』発言より、反対派の暴行、暴言のほうがひどい」「『土人』発言を引き起こしたのは反対派の暴言。機動隊員は悪くない」「反対派の売り言葉に対する、買い言葉に過ぎない」等である。

 

我々は、このような「反対派の過激な言動」とそれを理由に、「(警察官による)『土人』発言もやむを得ない」とする言論をどう理解すべきであろうか。

 

確かに、反対派の言動の中に、過激なものが含まれていることは事実であると思うし、警察官も人間である以上、心情的に、それらの言動から不快感や心理的プレッシャーを受けるであろうことは理解できる。

 

しかし、一般市民による権力に対する抗議に伴う激しい言動と、権力機関の職員である機動隊員の一般市民に対する暴言を同じレベルでとらえることはできない。

 

両者の間に権力の差が存在せず、完全に対等な関係であれば、お互いに罵り合っても、「お互い様」「売り言葉に買い言葉」ということで、喧嘩両成敗が成り立つ場合もある。

 

しかし、警察という国家権力を行使する主体である機動隊員は、いかなる理由があろうとも、その公務の執行中に、市民に対して暴言を吐く、ましてや特定の集団に対する差別を意味する言葉を吐くことは許されない。

 

なぜならば、警察官は、いざとなれば、公務執行妨害などの理由で一般市民を拘束し、その自由を奪うことのできる圧倒的な権力をもつからである。


一方、権力をもたない市民は、権力者である警察官に対して、激しい抗議をしようと思ったら、暴言を浴びせるぐらいしか方法はない。警察官と市民は、権力的に非対称な関係にあり、市民は警察官に対して権力的に圧倒的に劣位に立つ。

 

逆に、警察官のように圧倒的な権力をもつ者は、たとえ相手が、どのような政治的な立場に立つ人間であろうと、どのような思想信条や性格・人格の持ち主であろうと、どんなに汚い暴言を吐いてこようと、その職務の遂行過程においては、そうでない他の人たちと同様に、公正、公平に接しなければならない。

 

相手が思想信条を異にする者であったとしても、生理的に受け付けない、「むかつく」「嫌いなタイプの」人間であったとしても、決して、それを表明したり、態度に表したりしてはいけない。ましてや、特定の集団を差別し、攻撃する言論を吐くなどは論外である

 

警察官の市民に対する圧倒的な権力が、公正に、公平に、適切に行使されることを担保するためには、警察官は、如何なる相手に対しても、あくまでも、公正、公平に接しなければならないのだ。

 

もし仮に、警察官が、ある特定の思想信条をもつ者、あるいは、ある特定の集団に属する者に対して、偏見をむき出しにし、差別発言によって、彼らを攻撃することを許すならば、その警察官が、彼の攻撃対象としている相手に対して、公正、公平、適切に法を執行するということを、我々はどうやって担保するのだろうか。

 

そのような警察官に対して、我々市民は信頼を寄せられるだろうか。自分が、もし、彼の気に入らないタイプの人間に分類されたとき、彼が自分に対して、恣意的に法を適用しないと信じることができるだろうか。

 

また、警察官に激しく罵倒され、暴言を吐かれた市民の側が、自分に対して不利なように、恣意的に法が執行されることを恐れ、抗議の口を開けなくなるということは起こらないだろうか。もしそうなれば、それは、権力が市民を恫喝し、その思想信条や言論の自由を抑えようとする行為につながる。

 

このように、合法的に市民を拘束することのできる圧倒的な権力をもつ警察官の暴言と、その権力を罵倒するぐらいしか対抗手段をもたない市民の罵詈雑言を同列に捉えることはできないのだ。

 

そして、「本土」による沖縄に対する差別という背景がある中で、国家権力が沖縄差別を表す暴言を吐くということが起きた。我々は、沖縄に対する差別が、国家権力の暴言によって支えられるような構造を許してはならない。

「土人」発言に思う(2)

大阪府警から沖縄に派遣されていた20代の機動隊員による「土人」発言について、さらに考えてみたい。

 

「土人」という言葉は、歴史的に、「本土」の日本人が沖縄人を侮蔑し、差別する言葉として使われてきた(沖縄人に対してだけでなく、北海道のアイヌ人に対しても)。

 

この機動隊員の「土人」発言に対し、それを擁護する声がある一方で、当然のことながら、批判する声もある。「土人」呼ばわりされた沖縄人から批判・反発があるのは当然ながら、「本土」の人々からも批判の声が上がっている。

 

沖縄人を差別するこの発言が批判されるのは当然であるが、一方で、我々「本土」の人間は、単にこの機動隊員の差別発言を「言語道断」「怪しからん」と批判し、これを「無知で愚かな」、あるいは「悪質な一機動隊員個人の差別発言」と捉え、彼個人を批判して、それで終わらせてよいのだろうか。

 

機動隊員を擁護する発言をした大阪府の松井知事は、自身の発言に対する批判を受け、「発言は不適切だが、個人を特定して鬼畜生のように叩くのはやり過ぎだ」と述べた。

 

「土人」発言を擁護するかのような、知事の姿勢は認められないが、我々「本土」の人間が、同機動隊員の「土人」発言を、自分とは何の関係もない、機動隊員個人の問題と捉え、「自分には沖縄に対する差別意識はない」「自分は差別していない」という立場から、彼を一方的に非難し、「鬼畜生のように叩いて」済ませるなら、それは、「土人」という言葉が端的に示す、「本土」と沖縄の歴史的関係に潜む問題や、それが2016年の日本に生きる、20代の若者の口から沖縄人に対して投げつけられたという出来事の示す背景、本質を覆い隠し、「本土」の我々が、今回の「土人」発言問題をきっかけに、気づき、見つめ直さなければならない重要な問題に対し、見て見ぬふりを続けることになる。

 

「機動隊員という権力的立場の人間による、市民に対する暴言、差別発言を許してはならない」など、確かに、発言の主体が機動隊員であるがゆえに、考えなければならない問題、批判されなければならない側面もあるが、この辺で、我々は、「土人」発言を、一度、同機動隊員個人の問題、あるいは彼の属する権力機関の問題として捉えることから離れ、「本土」の我々全体の問題、「本土」と沖縄という対立軸の中で起きた問題、そして、「本土」側に属する自分という個人に関わりのある問題として捉えなおす必要がある。

 

なぜなら、この機動隊員に、沖縄人に対して「土人」という言葉を吐かせた背景には、「本土」の人間が歴史的に、それこそ、140年前の琉球処分で、当時の琉球国沖縄県として日本に併合した時までも遡る歴史の中で、沖縄に対して抱き続けてきた優越意識、差別意識があると考えられるからだ。

 

そもそも、この若い機動隊員は、どこで「土人」という言葉を覚えたのか、「土人」と沖縄人を結び付ける発想をどこで学んだのか。彼の両親からか。だとしたら、彼は、よほど珍しい、特殊な家庭で生まれ育ったことになる。

 

なぜなら、本土社会においても、沖縄人を指して「土人」と罵る言葉は、日常生活の中からは、ほぼ滅びたはずの言葉であり、我々が普通に暮らしている限りは、誰かがこの言葉を口にし、ましてや、それを沖縄人に対して投げつける場面を目撃することは、一生かかってもないはずの言葉だからだ。

 

したがって、よほど沖縄に対して特殊な恨みをもち、常に沖縄人を「土人」と罵っているような変わった親にでも育てられない限り、リアルな生活の中で、親や周囲の人間から、子どもがこの言葉を引き継ぐことはないはずだ。

 

だとすると、機動隊員がこの言葉を学んだ直接の場として考えられるのは、恐らく、ネット空間であろう。いわゆるネトウヨと呼ばれる人達が集まるネット上の空間においては、リアルな空間とは異なり、沖縄人を「土人」と罵る言葉を、容易に目にすることができる。

 

特に、翁長雄志氏が沖縄県知事に当選し、一旦は、辺野古移設で決着がつくかに思われた普天間基地移設問題が再びクローズアップされ、高江のヘリパッド移設反対運動と相まって、その反対の声が「本土」でも注目されるようになってから、ネット上での沖縄攻撃、沖縄差別の言論はこれまでより激しさを増している。

 

その中で、「沖縄土人」という言葉もより頻繁に目にするようになった。

 

恐らく、「土人」発言をした若い機動隊員も、このようなネット空間で「土人」という言葉を目にし、「土人」と沖縄人とを結びつける発想を身に着け、緊張が高まる高江ヘリパッド建設現場で反対派と対峙する中で、思わずこの言葉が口を突いて出たのであろう。

 

だとすれば、我々は、この機動隊員から出た「土人」という言葉を、彼個人の特殊な背景から出たものと捉えるのではなく、もっと多くの「本土」の普通の若者からも飛び出し得る、普遍性のある言葉として捉えなければならない。

 

では、ネット空間で沖縄人を「土人」と罵っている人たちは、どんな人達で、いったいどこでこの言葉を学んだのか。

 

恐らく、彼らも、決して特殊な親からこの言葉を学んだ特殊な人達ではないだろう。彼らも、一旦、パソコンを閉じてリアルな生活に戻れば、普通の親に育てられた、普通の市民であるはずだ。

 

つまり、「土人」という言葉は、「本土」社会における一種の「土壌」、すなわち、沖縄を差別する、あるいは沖縄に対する差別を容認する「本土」社会の土壌の中で、140年前の琉球処分以来、2016年になる現在まで、我々「本土」に住む普通の市民の中で、脈々と受け継がれてきたものだと考えられる。

 

我々は、特に意識をしなくとも、自分たちの祖先から、様々な文化、風習、習慣やものの考え方、そしてそれらを表現する言葉を受け継ぐ。ある特定の集団に対する差別意識も社会の中で受け継がれてくる。障碍者に対する差別意識、女性に対する差別意識、ある特定の人種・民族に対する差別意識も、特に「~を差別しろ」という教育を受けなくても、世代を超えて受け継がれてくる。

 

「本土」社会には、沖縄と沖縄人に対する差別意識が現代に至るまでも受け継がれている。インターネットが存在せず、リアルな生活しかなかった時代には、沖縄に対する差別がリアルな生活の中で存在した(「本土」の飲食店が「沖縄人お断り」の札を掲げていた話は多くの人が耳にしたことがあるだろう)。

 

それが、時とともに薄れ、「沖縄ブーム」などの効果もあり、逆に沖縄が憧れの地になる時代を経て、リアルな生活の中では、沖縄に対するあからさまな差別は次第に息をひそめ、「土人」という言葉も死語になりつつあった。

 

それが、ネットという匿名の空間で息を吹き返し、そのネット空間の影響を受けた、一人の若者が、緊張したシチュエーションの中で、思わず「土人」と叫んだ。それが今回の「土人」発言の背景である。

 

今回の「土人」発言が、このような背景から生まれたものであるなら、「本土」の我々は、これを自分と関係のない話として、この機動隊員を一方的に非難し、他人事として片づけるわけにはいかない。なぜなら、自分の中にも、沖縄人を「土人」と見なす「本土人」が潜んでいるはずだからだ。

 

意識の上では、「私は沖縄人に対する差別感情などない」「『土人』などという言葉は、今回の件がなければ聞いたこともなかったし、過去にもこれからも、一生口にすることはない」と思う人も多いだろう。

 

しかし、本人が「自分は差別などしない」と思っているということと、その人が本当に差別をしないかどうかは、実は別の問題である。差別的な言動は、多くの場合、本人の無自覚の下に行われる。

 

現に、「本土」の人間による沖縄に対する差別は、現在においては、その多くが、本人達が無意識・無自覚の状態で行われている。

 

数の上で、圧倒的優位に立つ我々「本土」の人間による主体的意思によって、沖縄に全国の約74%もの米軍専用施設を押し付け、その平等負担を拒否し、基地から来る騒音、犯罪、事故の苦痛と犠牲を沖縄人に一方的に押し付けるという差別的な行動は、大部分の「本土」の人間にとっては無自覚の行動である。

 

例え自覚がなく、そのつもりはないにしても、沖縄に対して、これほど差別的な行動をとることができるのは、「本土」の我々の中に、圧倒的な武力を背景に、沖縄を自らの領土に組み込んで以来、脈々と受け継がれてきた沖縄に対する優越意識、差別意識があるからであろう。

 

今回の「土人」発言を、「本土」の我々は、「自分とは関係のない、怪しからん一機動隊員個人の話」と考えるのではなく、「自分の中にもある『何か』が彼を通じて表現された」のだと捉え、自分の中に潜む、沖縄に対するその差別意識に気づき、見つめ直し、それを克服するためのきっかけにしなければならない。

「土人」発言に思う(1)

大阪府警から沖縄に派遣され、高江ヘリパッド建設地の警備にあたっていた20代の機動隊員が、ヘリパッド建設反対派で抗議活動にあたっていた市民に向かって、「ボケ、土人」という暴言を吐いたと報道されている。

 

また、現地から返された同機動隊員に対し、大阪府の松井知事がツイッターで、「表現が不適切」ではあったが、「一生懸命職務を遂行していた」として、「出張ご苦労様」とねぎらうコメントをツイートしたことも報道されている。

 

「本土」の我々は、この「土人」発言をどうとらえるべきか。

 

まず、大前提として、「本土」の人間より、「土人」という言葉が沖縄人に対して投げられるとき、その発言の背景やきっかけにどんなものがあろうとも、それが沖縄人に対する侮辱であり、侮蔑であり、差別を意味することを、我々は否定することができない。

 

「土人」という言葉が、どのような解釈(曲解)を試みようとも、歴史上、「本土」の日本人が沖縄人(に対してだけではなかったが)を侮蔑、差別する言葉として使用され、現在も、ネット上の様々な言論空間において、沖縄人を侮蔑、差別するために、この言葉が使われているということは、否定しようのない事実である。

 

「本土」の我々が、たとえどんな事情があったとしても、あるいは本人の意図がどうであったとしても、「土人」という言葉を沖縄人に向かって浴びせるという行為は、すなわち、沖縄人を侮蔑し、差別し、攻撃する行為である。

 

そうである以上、この言葉を沖縄人に対して発する者も、そして、その発言を擁護する者も、すべからく、沖縄人に対する差別の行為主体であり、その加担者である。

 

松井大阪府知事は「(反対派も)無茶苦茶を言っている」「混乱を引き起こしている」ことを理由に、「土人」発言をした機動隊員を擁護する姿勢を見せているが、「土人」発言は、沖縄人全体を激しく、侮辱、侮蔑し、差別する行為であり、いかなる理由、口実によっても正当化することはできない。

 

「Aが~だから、差別してもよい」という論理を認めるならば、それが障害者であれ、女性であれ、ある人種、民族であれ、世の中のある特定の集団に属する人たちに対するあらゆる差別と攻撃は正当化することが可能となる。

 

我々は、自分たちの住むこの社会を、そのような、差別や攻撃を正当化する社会にしたいのか。もっと具体的に言えば、我々は、自分たちの住むこの日本という国、社会を、沖縄人を侮辱し、差別し、攻撃する言論が、政治指導者の擁護を得て、大手を振って罷り通る、そんな社会にしたいのか。

 

それが問われている。