沖縄論考

日本と沖縄のことについて考えていきます。

沖縄の基地は「本土」に引き取る

ここまで、平和活動家たちによる「反戦平和運動」や政府の「基地負担軽減策」では、沖縄に対する過重な基地負担の押しつけを解消することは不可能であると述べてきた。

 

結論的には、沖縄に対する過重な基地負担の押しつけをやめる方法は、先にあげた三つの方法のうちの三つめ、「『本土』への基地引き取り」しか残されていないことになる。私は、現在のところ、これが「唯一の解決策」であると考えている。

 

「基地引き取り」とは何か。それは、沖縄に設置されている米軍施設を、日本「本土」のどこかに移すことである。沖縄には、日本全国の米軍専用施設の約75%が集中しているが、それを日本「本土」で引き取り、沖縄の負担比率を劇的に減らしていくことである。

 

なぜ、「本土」への基地の「移転」「移設」ではなく、「引き取り」なのか。「引き取り」とは、我々「本土」の日本人が沖縄に押し付けてきた過重な基地負担を、本来それを負うべき「本土」に戻すという意味を含む。本来、沖縄に追わせるべきではなかった過重負担を、我々「本土」の日本人が、本来の責任に基づいて「引き取る」のである。

 

では、沖縄の負担がどこまで減れば「過重負担」ではないといえるだろうか。

 

それは、少なくとも、沖縄と「本土」における基地の負担が「平等である」と双方納得するレベルまで沖縄の負担を減らすことである。減らした分は、当然「本土」が引き取る。沖縄のみに過重な基地負担を押し付けている現状は、明らかに不平等である。

 

どこまでいけば、「平等である」と言えるかは、沖縄と「本土」で話し合い、基準を決めるべきであろう。面積比なら「0.6%:99.4%」、人口比なら「1%:99%」になろう。「駐留する米軍の兵員数」とか「軍用機の離発着の回数」「騒音の指数」とか、他の基準のほうがよりよく量れるのであれば、それでもよい。

 

場合によっては、沖縄が戦後70年間にわたって、過重な負担をし続けてきた「時間」を考慮し、沖縄の負担は、一旦0%にするということもあり得るかもしれない。

 

いずれにしても、我々「本土」の日本人が沖縄に過重な基地負担を押し付け続けてきたのであれば、我々自身によってその負担を引き取るべきである。

 

我々「本土」の日本人は、その80%以上の人々が、日米安保条約を支持し、今後もそれを維持していきたいと考えている。日米安保とは、「米軍の日本への駐留を認め、それによって、日本の安全を守る」という安全保障の考え方であり実践である。これを、支持し、今後も維持していくことを望むならば、米軍の駐留に伴う負担、すなわち基地負担は、日本全体で平等に負うべきである。

 

それが嫌なら、米軍を日本に駐留させない方法、すなわち、日米安保以外の安全保障のあり方を考え出し、実践していかなければならない。

 

しかし、ここまで、述べてきたように、日本国民の80%以上が、日米安保条約を支持している以上、少数派の平和活動家たちが、いくら「安保廃棄・米軍撤退」を主張しても、それは実現しない。政府の「基地負担軽減策」は、沖縄の負担の「軽減」を目指したものであっても、「過重な基地負担の解消」を目指したものではない。

 

であるならば、「沖縄への過重な基地負担の押しつけ」を解消するためには、日米安保を支持し、それを今後も維持していこうとしている日本全体で、基地の負担を平等に負うしか方法はない。

 

これが、「沖縄への過重な基地負担の押しつけ」をやめる「唯一の解決策」である。

 

もちろん、「『本土』への基地引き取り」というやり方にも、いろいろな問題はあり、決して、理想的な、美しい解決方法ではない。

 

しかし、現在のところ、私は、この方法以外に、「沖縄への過重な基地負担の押しつけ」を確実にやめる方法は思いつかない。

「基地負担軽減」というまやかし

歴代の内閣は、基地に関連する事故や事件(例えば、1995年の少女暴行事件や2004年の沖縄国際大学へのヘリ墜落事件など)が起き、沖縄人の基地に対する反発・反対が高まるたびに、「基地負担の軽減に努める」ことを打ち出しだしてきた。

 

政府内にも、沖縄の経済振興と基地負担軽減について話し合う「政府・沖縄県協議会」が設置され、全国知事会にも、「沖縄の基地負担軽減について話し合う会議」が設けられた。国会内にも、自民党議員により、「沖縄の基地負担軽減をみんなで考える有志の会」が設立され、定期的な会合や沖縄への視察が行われている。

 

しかし、残念ながら、「基地負担の軽減」という考え方で、沖縄に対する過重な基地負担の押しつけが、現実に解消されることはないであろう。

 

そもそも、「基地負担の軽減」が到達しようとしているゴール、目指す理想の状態とは何であろうか。

 

「軽減」とは、「今より軽くなる」ということであり、現在沖縄に押し付けられている米軍基地が50%、25%削減されたら、それは「軽減した」と言えるが、5%、0.5%、あるいは0.05%しか減らなくても、「軽減した」と言えなくはない。いや、論理的には「軽減した」と言えてしまう。

 

事実、少女暴行事件の翌年の1996年に、日米両政府間で合意された「SACO最終報告」や米軍の「再編計画」に基づき、普天間基地、牧港補給地区など、嘉手納以南の複数の施設が返還されることが決まったが、いずれも、新たにその代替施設を沖縄県内に建設することが返還の条件とされており、それによって沖縄の基地の負担率は差し引きで0.7ポイントしか減らない。

 

高江ヘリパッド建設で揺れる北部演習場の返還についても、同ヘリパッド建設が返還の条件であり、嘉手納以南の返還と合わせても、沖縄の米軍専用施設の負担比率は、現在の約75%から約70%に減るだけである。

 

これが、「基地負担の軽減」の目指しているものだとするなら、それは、「沖縄に対する過重な基地負担の押しつけをやめる」という考え方とは全く別な話である。上記の負担軽減策が実行されても、依然として面積比0.6%の沖縄に、全国の約70%もの米軍専用施設が押し付けられていることになり、沖縄県民の過重な負担に変わりはない。

 

そもそも、返還した施設に変わる新たな代替施設を沖縄県内に建設しようとしていることを見れば、日本政府に沖縄の過重負担を本気で解消しようという意思のないことは明らかである。

 

穿った見方かもしれないが、「政府も沖縄のために精一杯努力している」ということを示すポーズに過ぎないとも見える。

 

また、そもそも、沖縄人の土地であったものを強奪して、その上に基地を作り、さらには、「本土」にあった基地までも沖縄に移すことによって、今の「過重負担状態」が作り出されたという歴史を振り返れば、「負担軽減してあげますよ」という考え方そのものが根本的に間違っている。

 

奪ったものは返されるべきである。そして、過重負担は「軽減」されるべきものではなく、「解消」されなければならない。

 

以上のことから、「基地負担の軽減」というやり方では、沖縄への過重な基地負担の押しつけをやめることは不可能であると考える。

「日本のどこにも基地はいらない」が犠牲にするもの

普天間基地の移設や北部訓練場の返還に伴う、辺野古新基地建設や東村高江のヘリパッド建設に対する反対運動が現地で繰り広げられている。反対運動には地元の人達のほか、本土からも様々な団体が集まり、加わっているという。

 

左翼系政治団体や平和活動家の中には、「日米安保廃棄」「日本からの基地撤去」を主張する人達がいる。彼らの主張は日本からの米軍基地の撤去なので、日本の一部である沖縄の基地にも反対し、「辺野古に基地はいらない、沖縄に基地はいらない」、そして「日本のどこにも基地はいらない」と主張する。

 

このような主張をすることは、彼らの立場からすると至極当然であり、反戦平和運動の主張としては正しいのかもしれない。しかし、「沖縄への過重な基地負担の押しつけをやめる」という目的から言うならば、この主張を続けることは、沖縄から基地をなくすことにはつながらず、「本土」の我々による、沖縄への基地の押しつけも終わらない。

 

なぜならば、左翼の人達や平和活動家がいくらそのように主張をしようとも、日本国民の圧倒的大多数は、日米安保条約を支持しているからだ。

 

2015年1月に内閣府の行った世論調査によると、「日米安全保障条約は日本の平和と安全に役立っていると思うか聞いたところ、『役立っている』とする者の割合は82.9%」に達する。

 

さらに、「日本の安全を守るためにはどのような方法をとるべきだと思うか聞いたところ、『現状どおり日米の安全保障体制と自衛隊で日本の安全を守る』と答えた者の割合が84.6%、『日米安全保障条約をやめて、自衛隊だけで日本の安全を守る』と答えた者の割合が6.6%、『日米安全保障条約をやめて、自衛隊も縮小または廃止する』と答えた者の割合が2.6%」となっている。

 

日本国民は日米安保条約を支持し、今後も日米安保体制が続くことを望んでいる。つまり、

日本国の領土内に米軍基地を設置し、米軍を駐留させることによって、国の安全を守るという安全保障のあり方を望んでいるのである。

 

この圧倒的な国民の支持を前にして、いくら、少数派の活動家達が、辺野古や高江で「安保反対」「日本からの基地撤去」を叫んでも、それによって、沖縄から基地がなくなることはない。これが現実である。これらの主張は、沖縄への過重な基地負担の押しつけを解消する方法としては成り立たないのである。

 

そして、当然ながら、「日米安保廃棄」「沖縄にも日本にも基地はいらない」と叫んでいる間も、沖縄への過重な基地負担の押しつけは続いている。

 

つまり、日本国民の意識が変化し、日米安保破棄派が少なくとも全国民の51%以上になり、日米安保に変わる新たな安全保障体制が考案され、「日本からの米軍基地の全面撤退」が国会の承認と日米両国の外交によって合意され、米軍基地の実際の撤退が始まり、完了するその時まで、沖縄は過重な基地負担を背負い続けなければならないのである。果たしてそんな日は来るのだろうか。

 

活動家の人達は、自分自身では気づいておらず、また、そのつもりもないのであろうが、彼らが「日米安保廃棄」「沖縄にも日本にも基地はいらない」と主張することは、「それが実現するまで沖縄への基地の押しつけをやめない」と宣言するのと同義であり、むしろ、そのような主張をし、眼前の基地押しつけの現実を無視することで、沖縄への基地押しつけに加担しているのである。

沖縄への基地の押しつけをやめる

ここまで、「『本土』に住む我々が沖縄に過重な基地負担を押し付けている」「沖縄に対する基地の押し付けはやめなければならない」ということを主張してきた。

 

では、押し付けをやめるために、我々は具体的に何をしたらよいのだろうか。「安保廃棄・日本からの米軍撤退」を目指して平和運動を展開すればよいのか、政府の沖縄基地負担軽減策を支持すればよいのか、それともほかの何かなのか。

 

それを考える前に、「『本土』に住む我々が沖縄に基地を押し付けている」ということについて、今一度、それがどういうことなのか、確認したい。

 

沖縄に存在する基地などの米軍施設は、第二次世界大戦末期の沖縄戦の最中に、沖縄に侵攻した米軍が現地の土地を強奪し、飛行場などの軍事施設を建設したことに始まる。

 

戦後、沖縄はサンフランシスコ平和条約により、「本土」より切り離され、米軍により統治される中、米軍施設はさらに拡大され、「祖国復帰」が実現した70年代には、それまでに「本土」から沖縄に移設された海兵隊基地などを含め、その占有比率は約75%に達した。

 

沖縄への米軍の駐留とその関連施設の建設・設置は、日米安保条約を根拠に行われている。同条約では、米軍が日本に駐留し、その関連施設を日本国内に設置する権利が認められている。しかし、その設置場所が「沖縄でなければならない」という取り決めはない。

 

すなわち、米軍基地は日本国内のどこに設置してもよいことになっている。しかし、現実には、その約75%が沖縄に集中している。集中させているのは誰か。それは日米安保条約の一方の主体である日本国政府と日本国民である。日本国政府と日本国民は、戦後~70年代までの約20~30年の間に、沖縄に対して、選択的に基地を集中させてきたのである。

 

もちろん、そこには、「沖縄に基地を集中させたい」という米国・米軍の意向・意思も働いたであろう。しかし、日米両国は対等な関係にある二つの主権国家である。もしも、日本国民が沖縄への過度な基地負担の集中を望まず、世論や投票行動によって、その意思を政府の外交・安全保障政策に反映させていれば、沖縄への過度な基地集中は行われないか、行われたとしても、是正されてきたはずである。

※沖縄に米軍基地が集中することについて、同地の「地政学的優位性」に原因を求め、それを正当化する論もあるが、「地政学的優位性」は、少なくとも、沖縄への海兵隊基地の集中の理由としては成り立たないことが、近年の日米両国の学者や政治家の研究・発言より明らかとなっている。百歩譲って、「地政学的優位性」が成り立つとしても、「故に沖縄に基地を集中させるかどうか」は、我々日本国民と日本国政府の選択に任されている。

 

それをせずに、沖縄への過度な基地負担を推進・容認し、現在もそれを維持し続けているのは、我々日本国民とそれによって支持されている日本政府である。逆に言えば、そのような「沖縄への過重な基地負担の押しつけ」をやめることができるのも、日本国民と日本政府であるといえる。

 

では、そのやめ方であるが、それには大きく分けて以下の3つがある。

 

1.安保廃棄、米軍の日本からの完全撤退の実現

2.沖縄の基地負担軽減への取り組み

3.米軍基地の「本土」への引き取り

 

結論から言うと、「沖縄への過重な基地負担の押しつけ」をやめる最も現実的な方法は、3の「米軍基地の『本土』への引き取り」である。これ以外の方法では、「押しつけ」をやめることは、現実的に不可能であると考える。

 

なぜそうなのか、その理由は次回述べる。

女性殺害事件の「政治利用」(2)

前回は、女性殺害事件に抗議し、海兵隊撤退を求める沖縄県民の声を、「女性の死の政治利用」と決めつける言論に対し、そのような言論は、沖縄に過重な基地負担を押し付け続けようとする意思から来る、「沖縄への基地押しつけのための手段」に過ぎないと批判した。

 

一方で、一部の保守系メディア、言論人、ネット世論が、「政治利用非難」を行う理由にはもう一つの側面もあると思うので、今回はそれを見ていきたい。

 

6月19日に開かれた、女性殺害事件に抗議する県民大会は、主催者発表で6万5千人の参加者を集めたとされるが、一部報道や本土からの参加者(見物者?)の報告によると、大会参加者の中には、沖縄各地から集まった沖縄県民のほかに、本土各地から集結したと見られる、労働組合や左翼系政治団体の活動家も多く含まれていたという。

 

大会会場では、沖縄県以外の県名の書かれた労働組合や左翼系政治団体を示すのぼりが多く立てられ、中には、過激派のものと見られるのぼりまで見られたという。

 

当日、私自身がその場にいたわけではないので、その真偽のほどを確認する術はないが、過去に開かれた、「普天間基地辺野古移設反対」「オスプレイの配備反対」の県民集会や、辺野古キャンプ・シュワブゲート前で行われている移設反対の抗議活動にも、地元の沖縄県民のほかに、本土から来た団体や活動家が多く参加していることが、報道や参加者自身の話から確認されており、沖縄における基地反対の集会や抗議活動には、毎回、本土からも多くの参加者があることがうかがえる。

 

前回、沖縄人が「海兵隊の撤退」を要求するのは、「理不尽な犠牲を減らし、沖縄人の生活環境、生存環境を改善し、よりよい地域を作っていきたいという、特定の政治的立場とは何の関係もない、人間なら誰しもがもつ、まっとうな欲求であり、要求である」と書いた。

 

では、本土の労働組合や政治団体の人間が、沖縄の県民大会に、わざわざ組織ぐるみで参加し、会場で「海兵隊撤退」や「基地反対」を叫ぶ行為をどう捉えたらよいだろうか。

 

もし、政治団体が組織的に人を動員し、集会に参加しているならば、それは、政治活動である。政治団体はそもそもが、政治活動を目的とした団体だからだ。労働組合は、本来は政治団体ではない。しかし、そのバックに特定の政党や政治団体がつき、その指示や方針の下に動いているのであれば、それは政治活動と言える。

 

本土の団体が、自らが沖縄に対して過重な基地負担を押し付けている主体であることを忘れ、ただ、自己の政治活動を展開するために、わざわざ沖縄まで来て県民大会に参加しているのであれば、それは、いわゆる「沖縄の基地問題」の政治利用であり、それが先般の6月19日の県民大会であれば、「女性の死の政治利用」という非難も、必ずしも的を外れていない。

 

私は、一部の保守系メディア、言論人、ネット世論の言う、「沖縄県民は基地を受け入れている」「反対運動をやっているのは本土の左翼活動家だけ」という主張、あるいは、6.19の県民大会全体を指して、「女性の死の政治利用」とする言論には反対だが、本土の政治団体による「沖縄の基地問題の政治利用」「女性の死の政治利用」にも反対である。

 

それは、沖縄の基地問題や基地に由来する被害を、自己の政治目的達成に利用しようとする行為にほかならず、沖縄人の「人間なら誰しもがもつまっとうな欲求であり、要求」から来る訴えとは、まるで性質の違うものである。

 

そもそも、前にも述べたように、本土の人間は沖縄における過重な基地負担と、そこに由来する基地被害の被害者ではない。本土にも米軍基地があり、それによる騒音被害や事件・事故の被害はあるが、少なくとも、我々は沖縄に過重に押し付けられた基地被害の被害者ではない。

 

面積比0.6%の沖縄に、全国の約75%もの米軍専有施設を押し付けているのは、左翼活動家もその成員に含む、我々本土の日本人である。我々本土の日本人は沖縄に対して過重な基地負担を押しつけている加害者である。

 

本土の活動家たちは、わざわざ沖縄まで行って「沖縄の基地問題の政治利用」「女性の死の政治利用」をする暇があったら、まずは、自分たちが、沖縄に対する過重な基地負担の押し付けをやめることに努力を注がなければならない。