沖縄論考

日本と沖縄のことについて考えていきます。

沖縄の負担は74%か23%か

 沖縄県は、面積比で言うと日本全体の0.6%、人口比で言うと日本全体の約1%の規模であるが、そこに、日本全国の約74%に及ぶ米軍専用施設が集中している。それらは沖縄県の県土面積の約10%、沖縄本島の面積の約18%を占める。

 

沖縄県以外にも米軍基地は存在するが、沖縄に米軍基地が偏在しているのは数字を見ても明らかであり、「沖縄に対する過重な基地負担の押し付け」とは、このことを指している。

 

沖縄県の翁長知事が訴えるのも、この「0.6%に74%が集中する過重負担を軽くしてほしい」ということである(どう考えても自然なまっとうな要求であるが、なぜか、一部の人々から、翁長知事は「売国奴」「中国の手先」呼ばわりされている)。これに対して、一部の論客やネットユーザにおいて、「『74%』というのは『沖縄の基地負担が過重である』という虚構をでっちあげるための数字のトリック」「沖縄の米軍基地は、現実には日本全体の23%を占めるに過ぎず、北海道の約34%より少ない」という主張がある。

 

実際には、この主張こそがトリックであり、「沖縄の基地負担が過重であるというのは虚構だ」とすることそのものが虚構である。

 

米軍が日本で使用する施設には、以下の3種類がある。

 

[①米軍のみが使用する施設(米軍専用施設)]

[②米軍の施設だが自衛隊も使用する施設]

[③米軍も一時利用可能な自衛隊施設]

 

通常、「沖縄に74%の米軍基地が集中」と言われるときに指しているのは、①の[米軍のみが使用する施設]の面積の、全国と比較した沖縄県の負担比率である。

仮に、①+②で見ても比率が微増するだけで①のみとほぼ変わらぬ約74%になる。

したがって、「沖縄の米軍基地の負担」は74%というのが実態となる。

 

一方、①+②+③で見ると、先ほど挙げた約23%となり、沖縄県の負担比率はぐんと減る。ただし、これは「米軍基地」の負担比率でなく、「米軍も一時利用が可能な自衛隊の駐屯地」を含めた比率となる。

 

日米地位協定という治外法権的な法律で守られた米軍基地①②」と「国内法に基づいて管理されている自衛隊施設③」、「普天間や嘉手納のように市街地と隣り合わせに置かれ、常時、米軍という外国軍隊の兵員が駐屯する米軍基地①②」と、「1年に1回、米軍が出張してきて人里離れた広大な原野で砲撃訓練を行うだけの施設も含む③」を、一緒くたにしたものが23%という数字である。

 

「米軍基地の過重負担」の問題を論じているときに、米軍基地ではないもの(自衛隊施設)を紛れ込ませ、「過重負担の押しつけ」の実態を矮小化するためのトリックが、「沖縄の基地負担は実は23%」という主張の正体である。

「本土」へ基地を引き取る

ここまで、「本土」への基地引き取りは、左右の立場を超えて支持されるべき考え方であると主張してきた。

 

それでも、いざ自分の住む町に米軍基地ができるという段になると、やはり、住民達の激しい不安と懸念を呼び起こし、政治的立場を超えた猛烈な反対・反発が起こるであろう。

 

誰も自分の住む町に米軍基地など抱え込みたくない。

 

米軍基地が自分の住む町にできれば、軍用機の離発着のたびに激しい騒音に悩まされることになるだろう。米軍兵士や軍属による犯罪・事故も起き、殺人や暴行、ひき逃げなどの悪質な犯罪の犠牲者が出る可能性も高い。軍用機の墜落による大参事のリスクも懸念されるし、土壌や河川など、環境に対する汚染も懸念される。有事の際には敵国の攻撃の標的になる可能性も大きい。また、米軍基地ができたことで、周辺の地価は大きく下がり、経済的に大きな損失を被ることになるかもしれない。

 

これまでのような、平穏で安全な暮らしは、基地が置かれたことで失われ、住民たちは、米軍基地という軍事施設と日々向き合って暮らさなければならなくなる。

 

誰もそんな生活は望まない。

 

しかし、日米安保条約に基づき、基地を築いて米軍を日本国内に駐留させ、それによって国の安全を守るというのは、現実には、【そういうこと】なのである。日本国民の80%が支持する日米安保条約は、そのような「負担」や「犠牲」を、国民自らが負うことを前提に成り立っている。

 

そして、「本土」の我々は、戦後70年の間、そして沖縄の本土復帰後40年の間、その「負担」「犠牲」の圧倒的大部分(約75%)を、自ら負うことなく、沖縄に押し付け続けてきた。過重な負担と基地被害の犠牲を、人口の99%という圧倒的に優位な数を背景に、選挙による投票行動や世論を通じて、沖縄に押し付けることを容認し、それを維持することに加担してきた。

 

その「負担」「犠牲」の大部分は、「本土」の我々が本来負うべきものであったのだ。我々が必要としている日米安保とそれに基づく米軍基地から来る「負担」「犠牲」は、本来、我々も応分に負担すべきものなのである。その本来負うべき負担を追わずに、沖縄にそれを一方的に押し付けるのは、「本土」に住む我々の、沖縄に対する差別、抑圧に他ならず、そのようにして押し付けられた米軍基地によって沖縄で引き起こされた事件・事故による犠牲は、米軍による加害であると同時に、「本土」に住む我々の沖縄に対する加害である。

 

「基地引き取り」は、沖縄に対するそのような差別、抑圧をやめ、加害をやめ、日本全体で、米軍基地の負担を、まずは平等に引き受けようという考え方である。

 

先ほど述べたように、一方でそれは、米軍基地の存在によって引き起こされる事件・事故を含む負担と犠牲をも、「本土」の自分たちの住む町に引き取ることを意味する。誰も、そんな負担は負いたくない、犠牲にもなりたくない、しかし、それを理由に引き取りを拒否することが、沖縄への過重な基地負担の押し付けを生み出し、維持し、それによって沖縄の人々を犠牲にしているのである。

 

それをやめるためには、基地から来る負担、犠牲も含めて、我々は、米軍基地を、自分たちの住む町に引き取らなければならない。

 

「基地を引き取った後に事件や事故が起きて、誰かが犠牲になったら、その責任はだれが取るんだ」という問いも出るだろう。それに対する答えは、「その責任は、あなたを含む、我々全員でとらなければならない。日米安保を支持し、米軍の日本駐留を容認している日本国民である我々が全員で負わなければならない」となる。

 

もちろん、可能な限り、負担や犠牲を小さくする工夫はするべきである。できるだけ、騒音被害を受けないで済むように、そして、万一の墜落などの際に、住民に被害が出ないようにするために、基地は住宅地から極力離れたところに置くべきであろう。それでも、近くに居住することになった住民に対して、住居の防音対策は、政府が責任をもって行うべきであろう。

 

米軍基地という迷惑施設を受け入れることによって発生する現実の経済的損失や心理的・精神的負担に対して、政府が十分な補償を行うことも必要だ。基地関連の交付金補助金について、基地を受け入れた自治体は、政府に対し、当然の権利として堂々と要求し、十分な額を受け取るべきだ。

 

また、犯罪の犠牲になるのを防ぐために、警察当局が入念な対策を採るほかに、地域住民による自警組織を作るなど、「自分や自分の家族は自分の手で守る」という覚悟と実際のアクションも必要になろう。もちろん、地元自治体も十分な予防策を講じるべきだ。

 

米軍基地の移設地も、既存の米軍施設や自衛隊施設、民間空港を活用するなど、可能な限り、人の生活する街への負担を軽くできる場所を選ぶべきであろう。

 

長い年月の間、街のど真ん中や集落のすぐ近くに基地を抱え込まされてきた沖縄の人々からすれば、ずいぶん行き届いた配慮であると感じ、そこに、沖縄の扱いと「本土」の扱いの差を見るかもしれないが、それでも、そのように工夫して、沖縄に過重に押し付けられている基地の負担を「本土」に引き取ることには、価値があり、意味がある。

 

「本土」に住む我々は、沖縄の米軍基地を自分たちの住む町に引き取り、これ以上、沖縄に対する差別者、抑圧者、加害者であることをやめるべきである。

「基地引き取り論」を支持する

前回まで、「沖縄にある米軍基地を『本土』へ引き取る」という主張は、「左派」「平和運動家」「安保廃棄論者」の人々からも、「右派」「保守派」「安保支持論者」の人々からも、支持されてしかるべきだということを述べた。

 

「左派」「平和運動家」「安保廃棄論者」の人々に対しては、あくまで「反戦平和」を貫いて、日米安保条約を廃棄し、日本から米軍を全撤退させることを目指すならば、沖縄の米軍基地は、まず「本土」に引き取るべきだと主張した。

 

一方で、「右派」「保守派」「安保支持論者」の人々に対しても、日本の安全を守るために、日米同盟・日米安保を今後も維持・強化していく必要があると考えるなら、沖縄の米軍基地は、まず「本土」に引き取るべきだと主張した。

 

一見、矛盾しているように見えるかもしれないが、私は、「左派」「平和運動家」「安保廃棄論者」の立場であっても、「右派」「保守派」「安保支持論者」の立場であっても、「基地引き取り」は支持すべきだと思うし、支持できると考えている。沖縄の米軍基地を「本土」に引き取るという考え方は、その意味するところが正しく理解されれば、両者の立場を超えて支持できるはずのものである。

 

したがって、最終的に目指すものは、「安保廃棄」×「安保維持・強化」という正反対のものであっても、まず「基地を本土に引き取る」という段階においては、それを実現するための、両者の連携・共闘は可能である。

 

先にも述べたように、今まで基地のなかった「本土」の各地に、沖縄から引き取った基地が置かれることで、「本土」に住む多くの人々は、自分たちの生活の中に「基地を抱える」ということがどういうことで、「米軍の駐留を認める」ことで成り立っている「日米安保体制」がどういうものなのか身をもって知ることになる。

 

それによって、各地で米軍基地反対運動や安保反対運動が起こり、日米安保体制は揺らぎ、不安定化し、国民的議論を経て、最終的に日米安保ではない安全保障のあり方を模索する方向に、日本の世論が動いていくかもしれない。

 

逆に、米軍基地を自分たちの住む町に抱えることで、「国防の負担は日本国民全体で負うのが当然」という意識が広がり、「米軍を活用しながら、自分たちの国を守っていく」というやり方を引き続き選択し、さらには、必要に応じて日米同盟強化・安保強化を推進していくことになるかもしれない。そして、そのように、国防の責務を国民全体で果たしていることを、日本人として誇りに思うようになるかもしれない。

 

そのどちらにするかは、我々日本国民が自ら考え、議論し、どちらかを選んで決めるのである。

 

その時には、「左派」「平和運動家」「安保廃棄論者」の人達は、「安保廃棄」「日本からの米軍基地全撤去」を実現するために存分に戦えばよいし、「右派」「保守派」「安保支持論者」の人達は、「日本国民全体で責任を果たしながら、米軍を活用して日本を守る」という安全保障体制のあり方を実現するために戦えばよい。

 

現在のように、沖縄に日本全国の米軍専用施設の約75%を押し付け、米軍基地があるが故の被害、損失、苦しみを沖縄人に集中的に味わわせ、それによって日本国民の大多数は米軍基地の負担から逃れ続け、一方では、圧倒的多数の世論によって日米安保を惰性的に支持し続けている限り、そういう日本人の唱える反戦平和主義は偽善であり、愛国者としては卑怯である。

 

我々日本人、日本国民は、「反戦平和国家日本」とか「普通の国日本」「美しい国日本」などというそれぞれの理想の実現に向かう前に、まず目の前で、自らの意思によって展開されている、「沖縄への過重な基地負担の押し付け(沖縄に対する差別と迫害)」と「基地負担からの逃亡(責任逃れ)」を止めなければならない。

「基地引き取り論」に対する反発(2)

「沖縄にある米軍基地を『本土』へ引き取る」という主張は、前回述べたように、「左派」「平和運動家」「安保廃棄論者」の人達から反発されることが予想されるが、同時に、「右派」「保守派」「安保支持論者」の人達からも反発・反対されるようである。

 

「右派」「保守派」「安保支持論者」の人達(にも様々な立場があるので、一括りにはできないが、ここでは主に「親米右派」と呼ばれる人々を指す)は、日米安保体制は、抑止力として、戦後の日本及び極東地域の平和と安全を守るために機能してきたと考え、中国の海洋進出や北朝鮮の核開発など、「日本を取り巻く環境の変化」と「日本の安全に対する脅威」に対処するため、今後、維持されるだけでなく、さらに強化されるべきだとも考えている(過去数十年の間、過半数以上の国民の支持の下、歴代の政権によって不断に強化されてきた)。

 

そのような彼らが「沖縄にある米軍基地を『本土』へ引き取る」という主張に反発するのはなぜか。

 

一つは、彼らは、それが日米安保体制の弱体化につながると考えているからである。沖縄の米軍基地は、中国や北朝鮮に対する抑止力として機能しており、それらを沖縄から他所に移すことは、抑止力の低減につながると考えている。

 

また、沖縄からの米軍基地の撤去は、中国や北朝鮮に対し、「誤ったメッセージ」を発することにもなり、「日本とその周辺地域で保たれている平和と安全の秩序を不安定化させる」と、彼らは考えている。沖縄の米軍基地を「本土」に引き取るということは、日本の国防を弱体化させ、他国に軍事的に付け入る隙を与えるというのである。

 

そのような考えは、「沖縄は軍略的、地政学的に優位な位置にあり」、そこに基地を集中させることが抑止力を発揮するのに最も有効であり、したがって、沖縄に基地を集中させることはやむを得ない、もしくは、積極的に基地を集中させ、沖縄を「国防の要」として活用すべきだという見方がベースにある。

 

そして、沖縄からの「『本土』も基地を平等に負担してほしい」という声に対しては、「沖縄を含む日本の安全保障のためには、沖縄に米軍基地を集中的に配置するのは、残念ながらやむを得ない」「沖縄の方は大変だが、沖縄の軍略的、地政学的優位性を理解し、基地負担を引き続き受忍してほしい」「沖縄の人々は安易に『基地反対』を叫ぶのではなく、日本の国防を担っているという自覚、もしくは誇りをもってほしい」などと答える。

 

しかし、沖縄の「軍略的、地政学的優位性」については、沖縄に集中する基地の75%を占める海兵隊基地については当てはまらないことが、日米両国の政治家の発言や学者の研究・議論から、近年明らかになっている。

 

詳しい議論は別の機会に譲るが、海兵隊の基地は、軍事的見地から言うと、沖縄にある必要はなく、「西日本ならどこに置いてもよい」のが実態であり、沖縄から「本土」に基地を移しても、「抑止力の弱体化」にはつながらない。

 

それでも沖縄に米軍基地が集中しているのは、「本土」に基地の引き受け手がいない、すなわち、「本土」の誰も基地を引き受けたがらないためであり、それによって「本土の我々」が沖縄にそれを押し付けているからである。

 

一般的に言って、「右派」「保守派」「安保支持論者」の人達は、「左派」「平和運動家」「安保廃棄論者」の人達に比べ、安全保障や国防に対する意識が高く、愛国心が強く、「自分の国を守る」ことに対する責任感もより強い人たちであると思う。「左派」「平和運動家」「安保廃棄論者」の人達のような、軍事、軍隊に対する心理的アレルギーも薄いはずである。

 

もしも、彼らが、「日本の国防、安全保障のために、日米安保条約は必要であり、日本に米軍が駐留することは必要だ」と考えるのであれば、「日本人としてその負担は引き受ける」「自分の住む地域に米軍基地を受け入れることで国を守ることに貢献する」と考え、基地の負担を受け入れてしかるべきではないか。

 

愛国心」や「公の意識」を言うのであれば、日米安保体制下において、愛する日本を守るために必要であり、かつ究極的な公的責務である米軍基地の負担は、沖縄だけに押し付けるのではなく、誇り高い愛国者である「右派」「保守派」「安保支持論者」の人達こそ、率先して受け入れるべきである。

 

むしろ、そのような意識の高い「本土の日本人」が、誇りをもって基地を受け入れることが、日米安保体制をさらに安定的に維持していくために有利でもあろう。

 

「本土の我々」は、戦後70年間、沖縄に米軍基地の負担を押し付け続け、さらに約40年の間、全国の75%という過重な負担を押し付けてきた。沖縄人の忍耐も限界に達しており、米軍基地に対する反発は強まる一方である。

 

このように、反基地感情が強く、不安定な沖縄に基地を押し付け続けるよりも、約80%の人間が日米安保条約を支持し、日米安保体制が今後も続くことを望んでいる、その「本土」に基地を引き取るほうが、中長期的に見て、ずっと安定した基地運用が可能になるはずだ。

 

そして、自分の住んでいる地域に米軍基地を抱えることは、国民一人一人が、不断に「安全保障とは何か」「国を守るとはどういうことか」を考え、学ぶ機会を与え、国民の国防に対する意識を高めるのにも大いに寄与するであろう。

 

以上のことから、「本土」への基地引き取りは、「右派」「保守派」「安保支持論者」の人達によっても、強く支持されてしかるべきなのである。

「基地引き取り論」に対する反発(1)

私は、沖縄に対する過重な基地負担の押し付けを解消するためには、沖縄にある米軍基地を、「本土」に引き取るしか方法はないと考えている。

 

この「基地引き取り論」は、恐らく、「左派」「平和運動家」「安保廃棄論者」の人達から、激しい反発と反対を喰らうであろう。

 

彼らは「反戦平和」を主張し、日米安保条約に反対であり、「日本のどこにも基地はいらない」と主張する。彼らにとってみれば、沖縄の米軍基地を「本土」が引き取るということは、日米安保条約の存続・強化を認めることであり、沖縄という狭い地域に封じ込めていた基地を日本全国に拡散させる行為である。

 

これは「安保廃絶」「日本からの全基地撤去」という彼らの目的からすれば逆行であり、また、「『引き取り』に乗じたさらなる軍拡・軍備強化の機会を政府に与え、近隣諸国の警戒と緊張を引き起こす…」など、懸念を数えれば数限りないであろう。

 

しかし、前でも述べたように、日本国民の80%以上が日米安保体制を支持し、今後も、「日米安保に頼って日本の安全を守っていく」ということに賛成している。その状況下で、いくら沖縄に基地を封じ込め、その沖縄で基地反対運動を行っても、彼らの言う「安保廃絶」「日本からの全基地撤去」が実現されることはない。

 

彼らや地元の沖縄県民が、いくら辺野古や高江で基地反対の声をあげても、それによって、日本国民全体の世論が変わることはない。仮に、地元の声が最終的に移設阻止を実現しても、普天間基地など、県内の新施設建設が移設条件である現行基地は残ることになり、沖縄の過重負担は変わらない。もちろん、日本からの基地撤去も進まない。

 

むしろ、75%の米軍専用施設を沖縄に封じ込め、大多数の日本国民から米軍基地の実態が見えなくなることで、「本土」の我々は、「米軍が日本に駐留する」「基地と『共存』する」とはどういうことなのか考える機会をもつことなく過ごしており、それが安易な「日米安保賛成」世論を生み出す源になっていると考えられる。

 

沖縄の海兵隊基地の中には、もともと、山梨県岐阜県にあり、地元の反対運動の結果、当時、米軍統治下にあった沖縄に移されたものもある。当時の反対運動は、実力行使を伴う猛烈なもので、日本政府は、このまま事態を放置しておけば、日米安保体制そのものが揺らぐという危機感を覚えたのではないか。

 

そのため、米軍専用施設の75%を沖縄に押し付け、大多数の日本国民の生活実感の中から、米軍基地の存在を消すことで、現在に至るまで、日米安保体制を安定的に維持することに成功したといえるのではないか。

 

逆に、米軍基地を沖縄から「本土」に引き取り、「本土」の我々の日常生活の中に米軍基地が出現することで、我々「本土」の人間は初めて、「日米安保体制とは何か」「米軍を日本に駐留させるとはどういうことなのか」「沖縄が負い続けてきた基地負担とは何なのか」「我々は本当にこのような日米安保体制を支持し、今後も維持していくのか」を真剣に考える機会をもつことができるのではないか。

 

その時初めて、これまで基地問題に無関心であった大多数の日本国民の中から、「安保廃絶」「日本からの全基地撤去」という「反戦平和」の立場の人達の主張に耳を傾ける者が現われ、世論が変化し、「日米安保体制」は、現在の「安定的に維持されている状態」から「不安定で存続が懸念される状態」に代わっていく可能性がある。

 

つまり、「本土」への基地引き取りは、「左派」「平和運動家」「安保廃棄論者」の人達が、過去何十年かけても実現できなかった、「安保廃絶」「日本からの全基地撤去」という目的に向かう、大きな前進をもたらす可能性がある。

 

「本土」への基地引き取りは、「左派」「平和運動家」「安保廃棄論者」の人達にこそ、強く支持されてしかるべきなのである。