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沖縄論考

日本と沖縄のことについて考えていきます。

彼女を殺したのは私だ

2016年5月に沖縄で起きた女性殺害事件。「米軍属逮捕」の第一報を聞いた時、「またか」「ついに再び起きてしまったか」という衝撃とともに、鉛を押し込まれたような重苦しさを腹の底に感じた。

この重苦しさは、事件以来、日常生活を送る中で、事件のことが頭をよぎる度に、腹の底から沸き上がり、私の気持ちを憂鬱にさせる。

 

彼女を殺したのは私だ。

 

私が直接手を下したわけではない。しかし、沖縄という小さな土地に、米軍基地が過重に押し付けられる中、そこから生まれた「米軍関係者による殺人、死体遺棄」がこの事件の真相であり、彼女がその犠牲者であるならば、沖縄に過重な基地負担を押し付け続けている主体である、「本土」に住む日本人である私には、彼女の死に対する責任がある。

 

沖縄駐留米軍による、殺人、ひき逃げ、暴行などの犯罪や飛行機墜落などの事故、そしてそれによる犠牲は、戦後70年間、幾度となく繰り返され、数多くの沖縄人が犠牲となってきた。

 

1995年の少女暴行事件は言うに及ばず、今年(2016年)3月にも、観光客女性に対する米兵の暴行事件が発生、日本政府が抗議、米側は「綱紀粛正、再発防止」を約束したばかりだった。

そもそも、1995年の事件を受け、「沖縄県民の怒り」が沸点を超える中で、米側は「綱紀粛正、再発防止」「二度とこのような事件を起こさない」と約束したはずだ。にも関わらず、同様の事件は後を絶たない。

 

今回も、米軍高官より、「二度とこのようなことを起こさないよう、全力で努力する」旨の発言が出た。しかし、この言葉は空しく響くだけで、もはや期待、信頼や説得力を、そこに感じることはできない。

 

日本政府が「厳重抗議のふりをしているだけ」、米側が「綱紀粛正、再発防止するふりをしているだけ」なのかどうかはわからない。しかし、ふりであろうと彼らなりに真剣に取り組んできた結果であろうと、もはや、「米軍基地が沖縄にある限り、このような事件が起こることは防げない」「基地がある限り、そこから発生する事件・事故で住民が犠牲となることは避けられない」ことは、これまでの歴史の中で発生した数々の出来事により証明されてしまった。

 

数週間後か、数か月後か、数年後かはわからない。しかし、私たち日本人が沖縄に基地を押し付け続ける限り、今回のような犠牲は何度でも、何人でも繰り返し生まれ続ける(女性殺害事件の直後の6月5日には、米兵の飲酒運転により女性二人が重傷を負う事故も起きた。「再発防止」はほとんど空手形である)。基地を置くとはそういうことなのだ。私たちはそれを認識しなければならない。

いや、どんなに沖縄に無関心でも、どんなに「難しい問題」には疎くても、政治には関心がなくても、これだけ事件・事故とその犠牲が繰り返され、報道もされれば、沖縄が、沖縄人がどういう境遇に置かれているのか、我々はすでにそれに気づいているはずだ。気づいていながら、なぜ沖縄からの訴えを無視し続けるのか、なぜ沖縄に犠牲を強い続けるのか。

 

沖縄に基地を押し付け、沖縄人のみに過重な犠牲を強いるのはもうやめよう。

 

沖縄に基地を押し付ける主体である日本人である私は、その結果として起きた、基地関係者による犯罪とその犠牲に責任がある。なぜなら、こうなることがわかって、犠牲が繰り返されることをわかって、なお押しつけ続けるのをやめていないからだ。

 

その意味で、彼女は私が殺した。私が20歳の彼女の若い命を奪ってしまった。そんな自分を私は、これ以上許してはいけない。

 

どんなに恐ろしく、痛く、苦しく、そして、無念だっただろう。それでも、我々が変わらない限り、我々がやめない限り、このような犠牲は確実に繰り返される。