沖縄論考

日本と沖縄のことについて考えていきます。

沖縄に基地を押し付けている者

「『本土』に住む我々が沖縄に基地を押し付けている」と言われても、当の「本土」に住む日本人は、何のことを言われているのか理解できない者が大多数であろう。むしろ、そのように言われると、何か不当な言いがかりをつけられているような反発や驚き、心外な気持ちを抱くであろう。「本土」に住む日本人の多くには、自分が「沖縄に基地を押し付けている」という自覚はない。

 

しかし、沖縄と沖縄における米軍基地の歴史を振り返れば、沖縄に基地が集中しているのは、まさに「本土」の人間が沖縄にそれを押し付け、そして、現在も押し続けていることの結果であることがわかる。

 

大戦末期、沖縄は日本で唯一の地上戦の戦場となった。沖縄に侵攻した米軍は、地上戦末期から終戦直後にかけ、沖縄の土地を占領し、そこに軍事施設を建設した。

 

戦後、米軍は沖縄住民を収容所に送り込み、その後、解放された住民が占領地に戻ることを認めず、居座り続けるばかりか、さらに多くの村や農地の強制収容を実施、軍事施設の建設を拡大した。移設問題で揺れる普天間基地は、そのようにしてできた典型的な施設である。

 

沖縄の米軍基地は、沖縄に侵攻した米軍が、住民の土地を強奪し、建設したことに始まる。

 

1951年、サンフランシスコ平和条約が署名され、翌1952年4月28日に発効した。これにより、日本はGHQによる軍政から解放され、主権を回復した。しかし、同時に、沖縄は日本本土より切り離され、米軍の統治下に置かれた。「本土」と沖縄の戦後は、この日を境に、その歩みの明暗を大きく分けることになった。当然ながら、この「切り離し」は日本国政府の公認の下に行われた。沖縄ではこの日を「屈辱の日」と呼んでいる(安倍政権は同じ日を「主権回復の日」として祝っている)。

 

沖縄は、1945年の沖縄戦から1972年の「本土復帰」までの四半世紀にわたり、米軍に占領・統治された。一方、「本土」は、主権回復以降、日本国憲法日米安保条約に守られながら、朝鮮戦争ベトナム戦争など、近隣の戦争を経て、戦後復興と経済の高度成長を成し遂げ、世界でも有数の豊かな経済大国となった。

 

注目すべきは、その間、米軍基地負担の「本土」から沖縄への移転が進んだことである。敗戦直後、「本土」と沖縄の米軍基地面積比率は、およそ[90%:10%]であった。その後、平和条約締結を経た50年代には、本土で基地地元住民を中心に反基地運動が激化、実力行使を伴った激しい反対運動が繰り広げられる中、「本土」からの基地の撤退や、沖縄への移転(岐阜県山梨県海兵隊基地の沖縄移転など)が行われ、60年代には、その比率は[50%:50%]となった。そして、沖縄が「本土復帰」した70年代には、[15%:75%]となり、今に至っている。

 

「本土」が日本国憲法日米安保条約の下、「復興⇒成長」を実現し、「戦争」や「軍隊」が生活の中の身近な空間から消えていく中、「地上戦⇒米軍統治⇒基地負担集中」と、沖縄は、戦後一貫して「戦争」「軍隊」を生活の中に抱き込まされることになった。

 

では、沖縄に全国の75%もの米軍基地を抱き込ませ、現在も抱き込ませ続けているのはいったい誰なのか。

 

それは、日本国政府であり、その日本国政府を1946年に行われた初の男女普通選挙以来、70年間にわたって選び、信任している我々日本国民一人一人である。

 

確かに、米軍基地の始まりは、米軍による沖縄の占領と土地強奪である。米国も沖縄への基地押しつけの主体であることに違いはない。

 

一方で、戦後70年間にわたり、選挙という民主的な手続きにより、国会議員そして政府の指導者を選び・信任してきた我々日本国民一人一人にも、その政府・議会によって進められ・承認された沖縄への基地負担の移転と過度な集中に対して、逃れられない責任がある。

 

むしろ、日本と米国がともに独立した主権国家であり、対等な関係であることを考えれば、米軍の基地押しつけを許している日本国政府のほうが、責任はより大きい。なぜなら、米国による基地押しつけを本気でやめさせようと思えば、主権国家である日本国の政府には、それができるからである。

 

「悪いのは政府であって国民ではない」という言い逃れは通用しない。その政府は誰が選び、誰が支持しているのか。沖縄に全国の75%もの基地が集中している事実に気づきながら、それを、投票行動を通じて変えようとしてこなかったのは誰なのか。普天間基地の県外移設による「沖縄の負担軽減」を実現しようとした鳩山内閣をつぶし、辺野古移転を推進する管-野田-安倍の各内閣を誕生させてきたのは誰なのか。

 

我々は、沖縄に全国の約75%もの米軍専用施設を集中させているのは、我々自身であり、その現状を変えようとしないのも我々自身であるということを認識しなければならない。そして、認識した以上は、それに対して、自分はどう思うのか、その意思を明らかにし、正しいと思う行動を採らなければならない。

 

「気づかぬ者」「気づいているが気づかぬふりをする者」「気づいているがそれ以上何もしない者」は、いずれも、押しつけの遂行者であり、押し付けている現状の擁護者である。