女性殺害事件の「政治利用」(2)
前回は、女性殺害事件に抗議し、海兵隊撤退を求める沖縄県民の声を、「女性の死の政治利用」と決めつける言論に対し、そのような言論は、沖縄に過重な基地負担を押し付け続けようとする意思から来る、「沖縄への基地押しつけのための手段」に過ぎないと批判した。
一方で、一部の保守系メディア、言論人、ネット世論が、「政治利用非難」を行う理由にはもう一つの側面もあると思うので、今回はそれを見ていきたい。
6月19日に開かれた、女性殺害事件に抗議する県民大会は、主催者発表で6万5千人の参加者を集めたとされるが、一部報道や本土からの参加者(見物者?)の報告によると、大会参加者の中には、沖縄各地から集まった沖縄県民のほかに、本土各地から集結したと見られる、労働組合や左翼系政治団体の活動家も多く含まれていたという。
大会会場では、沖縄県以外の県名の書かれた労働組合や左翼系政治団体を示すのぼりが多く立てられ、中には、過激派のものと見られるのぼりまで見られたという。
当日、私自身がその場にいたわけではないので、その真偽のほどを確認する術はないが、過去に開かれた、「普天間基地の辺野古移設反対」「オスプレイの配備反対」の県民集会や、辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で行われている移設反対の抗議活動にも、地元の沖縄県民のほかに、本土から来た団体や活動家が多く参加していることが、報道や参加者自身の話から確認されており、沖縄における基地反対の集会や抗議活動には、毎回、本土からも多くの参加者があることがうかがえる。
前回、沖縄人が「海兵隊の撤退」を要求するのは、「理不尽な犠牲を減らし、沖縄人の生活環境、生存環境を改善し、よりよい地域を作っていきたいという、特定の政治的立場とは何の関係もない、人間なら誰しもがもつ、まっとうな欲求であり、要求である」と書いた。
では、本土の労働組合や政治団体の人間が、沖縄の県民大会に、わざわざ組織ぐるみで参加し、会場で「海兵隊撤退」や「基地反対」を叫ぶ行為をどう捉えたらよいだろうか。
もし、政治団体が組織的に人を動員し、集会に参加しているならば、それは、政治活動である。政治団体はそもそもが、政治活動を目的とした団体だからだ。労働組合は、本来は政治団体ではない。しかし、そのバックに特定の政党や政治団体がつき、その指示や方針の下に動いているのであれば、それは政治活動と言える。
本土の団体が、自らが沖縄に対して過重な基地負担を押し付けている主体であることを忘れ、ただ、自己の政治活動を展開するために、わざわざ沖縄まで来て県民大会に参加しているのであれば、それは、いわゆる「沖縄の基地問題」の政治利用であり、それが先般の6月19日の県民大会であれば、「女性の死の政治利用」という非難も、必ずしも的を外れていない。
私は、一部の保守系メディア、言論人、ネット世論の言う、「沖縄県民は基地を受け入れている」「反対運動をやっているのは本土の左翼活動家だけ」という主張、あるいは、6.19の県民大会全体を指して、「女性の死の政治利用」とする言論には反対だが、本土の政治団体による「沖縄の基地問題の政治利用」「女性の死の政治利用」にも反対である。
それは、沖縄の基地問題や基地に由来する被害を、自己の政治目的達成に利用しようとする行為にほかならず、沖縄人の「人間なら誰しもがもつまっとうな欲求であり、要求」から来る訴えとは、まるで性質の違うものである。
そもそも、前にも述べたように、本土の人間は沖縄における過重な基地負担と、そこに由来する基地被害の被害者ではない。本土にも米軍基地があり、それによる騒音被害や事件・事故の被害はあるが、少なくとも、我々は沖縄に過重に押し付けられた基地被害の被害者ではない。
面積比0.6%の沖縄に、全国の約75%もの米軍専有施設を押し付けているのは、左翼活動家もその成員に含む、我々本土の日本人である。我々本土の日本人は沖縄に対して過重な基地負担を押しつけている加害者である。
本土の活動家たちは、わざわざ沖縄まで行って「沖縄の基地問題の政治利用」「女性の死の政治利用」をする暇があったら、まずは、自分たちが、沖縄に対する過重な基地負担の押し付けをやめることに努力を注がなければならない。