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沖縄論考

日本と沖縄のことについて考えていきます。

「土人」発言に思う(2)

大阪府警から沖縄に派遣されていた20代の機動隊員による「土人」発言について、さらに考えてみたい。

 

「土人」という言葉は、歴史的に、「本土」の日本人が沖縄人を侮蔑し、差別する言葉として使われてきた(沖縄人に対してだけでなく、北海道のアイヌ人に対しても)。

 

この機動隊員の「土人」発言に対し、それを擁護する声がある一方で、当然のことながら、批判する声もある。「土人」呼ばわりされた沖縄人から批判・反発があるのは当然ながら、「本土」の人々からも批判の声が上がっている。

 

沖縄人を差別するこの発言が批判されるのは当然であるが、一方で、我々「本土」の人間は、単にこの機動隊員の差別発言を「言語道断」「怪しからん」と批判し、これを「無知で愚かな」、あるいは「悪質な一機動隊員個人の差別発言」と捉え、彼個人を批判して、それで終わらせてよいのだろうか。

 

機動隊員を擁護する発言をした大阪府の松井知事は、自身の発言に対する批判を受け、「発言は不適切だが、個人を特定して鬼畜生のように叩くのはやり過ぎだ」と述べた。

 

「土人」発言を擁護するかのような、知事の姿勢は認められないが、我々「本土」の人間が、同機動隊員の「土人」発言を、自分とは何の関係もない、機動隊員個人の問題と捉え、「自分には沖縄に対する差別意識はない」「自分は差別していない」という立場から、彼を一方的に非難し、「鬼畜生のように叩いて」済ませるなら、それは、「土人」という言葉が端的に示す、「本土」と沖縄の歴史的関係に潜む問題や、それが2016年の日本に生きる、20代の若者の口から沖縄人に対して投げつけられたという出来事の示す背景、本質を覆い隠し、「本土」の我々が、今回の「土人」発言問題をきっかけに、気づき、見つめ直さなければならない重要な問題に対し、見て見ぬふりを続けることになる。

 

「機動隊員という権力的立場の人間による、市民に対する暴言、差別発言を許してはならない」など、確かに、発言の主体が機動隊員であるがゆえに、考えなければならない問題、批判されなければならない側面もあるが、この辺で、我々は、「土人」発言を、一度、同機動隊員個人の問題、あるいは彼の属する権力機関の問題として捉えることから離れ、「本土」の我々全体の問題、「本土」と沖縄という対立軸の中で起きた問題、そして、「本土」側に属する自分という個人に関わりのある問題として捉えなおす必要がある。

 

なぜなら、この機動隊員に、沖縄人に対して「土人」という言葉を吐かせた背景には、「本土」の人間が歴史的に、それこそ、140年前の琉球処分で、当時の琉球国沖縄県として日本に併合した時までも遡る歴史の中で、沖縄に対して抱き続けてきた優越意識、差別意識があると考えられるからだ。

 

そもそも、この若い機動隊員は、どこで「土人」という言葉を覚えたのか、「土人」と沖縄人を結び付ける発想をどこで学んだのか。彼の両親からか。だとしたら、彼は、よほど珍しい、特殊な家庭で生まれ育ったことになる。

 

なぜなら、本土社会においても、沖縄人を指して「土人」と罵る言葉は、日常生活の中からは、ほぼ滅びたはずの言葉であり、我々が普通に暮らしている限りは、誰かがこの言葉を口にし、ましてや、それを沖縄人に対して投げつける場面を目撃することは、一生かかってもないはずの言葉だからだ。

 

したがって、よほど沖縄に対して特殊な恨みをもち、常に沖縄人を「土人」と罵っているような変わった親にでも育てられない限り、リアルな生活の中で、親や周囲の人間から、子どもがこの言葉を引き継ぐことはないはずだ。

 

だとすると、機動隊員がこの言葉を学んだ直接の場として考えられるのは、恐らく、ネット空間であろう。いわゆるネトウヨと呼ばれる人達が集まるネット上の空間においては、リアルな空間とは異なり、沖縄人を「土人」と罵る言葉を、容易に目にすることができる。

 

特に、翁長雄志氏が沖縄県知事に当選し、一旦は、辺野古移設で決着がつくかに思われた普天間基地移設問題が再びクローズアップされ、高江のヘリパッド移設反対運動と相まって、その反対の声が「本土」でも注目されるようになってから、ネット上での沖縄攻撃、沖縄差別の言論はこれまでより激しさを増している。

 

その中で、「沖縄土人」という言葉もより頻繁に目にするようになった。

 

恐らく、「土人」発言をした若い機動隊員も、このようなネット空間で「土人」という言葉を目にし、「土人」と沖縄人とを結びつける発想を身に着け、緊張が高まる高江ヘリパッド建設現場で反対派と対峙する中で、思わずこの言葉が口を突いて出たのであろう。

 

だとすれば、我々は、この機動隊員から出た「土人」という言葉を、彼個人の特殊な背景から出たものと捉えるのではなく、もっと多くの「本土」の普通の若者からも飛び出し得る、普遍性のある言葉として捉えなければならない。

 

では、ネット空間で沖縄人を「土人」と罵っている人たちは、どんな人達で、いったいどこでこの言葉を学んだのか。

 

恐らく、彼らも、決して特殊な親からこの言葉を学んだ特殊な人達ではないだろう。彼らも、一旦、パソコンを閉じてリアルな生活に戻れば、普通の親に育てられた、普通の市民であるはずだ。

 

つまり、「土人」という言葉は、「本土」社会における一種の「土壌」、すなわち、沖縄を差別する、あるいは沖縄に対する差別を容認する「本土」社会の土壌の中で、140年前の琉球処分以来、2016年になる現在まで、我々「本土」に住む普通の市民の中で、脈々と受け継がれてきたものだと考えられる。

 

我々は、特に意識をしなくとも、自分たちの祖先から、様々な文化、風習、習慣やものの考え方、そしてそれらを表現する言葉を受け継ぐ。ある特定の集団に対する差別意識も社会の中で受け継がれてくる。障碍者に対する差別意識、女性に対する差別意識、ある特定の人種・民族に対する差別意識も、特に「~を差別しろ」という教育を受けなくても、世代を超えて受け継がれてくる。

 

「本土」社会には、沖縄と沖縄人に対する差別意識が現代に至るまでも受け継がれている。インターネットが存在せず、リアルな生活しかなかった時代には、沖縄に対する差別がリアルな生活の中で存在した(「本土」の飲食店が「沖縄人お断り」の札を掲げていた話は多くの人が耳にしたことがあるだろう)。

 

それが、時とともに薄れ、「沖縄ブーム」などの効果もあり、逆に沖縄が憧れの地になる時代を経て、リアルな生活の中では、沖縄に対するあからさまな差別は次第に息をひそめ、「土人」という言葉も死語になりつつあった。

 

それが、ネットという匿名の空間で息を吹き返し、そのネット空間の影響を受けた、一人の若者が、緊張したシチュエーションの中で、思わず「土人」と叫んだ。それが今回の「土人」発言の背景である。

 

今回の「土人」発言が、このような背景から生まれたものであるなら、「本土」の我々は、これを自分と関係のない話として、この機動隊員を一方的に非難し、他人事として片づけるわけにはいかない。なぜなら、自分の中にも、沖縄人を「土人」と見なす「本土人」が潜んでいるはずだからだ。

 

意識の上では、「私は沖縄人に対する差別感情などない」「『土人』などという言葉は、今回の件がなければ聞いたこともなかったし、過去にもこれからも、一生口にすることはない」と思う人も多いだろう。

 

しかし、本人が「自分は差別などしない」と思っているということと、その人が本当に差別をしないかどうかは、実は別の問題である。差別的な言動は、多くの場合、本人の無自覚の下に行われる。

 

現に、「本土」の人間による沖縄に対する差別は、現在においては、その多くが、本人達が無意識・無自覚の状態で行われている。

 

数の上で、圧倒的優位に立つ我々「本土」の人間による主体的意思によって、沖縄に全国の約74%もの米軍専用施設を押し付け、その平等負担を拒否し、基地から来る騒音、犯罪、事故の苦痛と犠牲を沖縄人に一方的に押し付けるという差別的な行動は、大部分の「本土」の人間にとっては無自覚の行動である。

 

例え自覚がなく、そのつもりはないにしても、沖縄に対して、これほど差別的な行動をとることができるのは、「本土」の我々の中に、圧倒的な武力を背景に、沖縄を自らの領土に組み込んで以来、脈々と受け継がれてきた沖縄に対する優越意識、差別意識があるからであろう。

 

今回の「土人」発言を、「本土」の我々は、「自分とは関係のない、怪しからん一機動隊員個人の話」と考えるのではなく、「自分の中にもある『何か』が彼を通じて表現された」のだと捉え、自分の中に潜む、沖縄に対するその差別意識に気づき、見つめ直し、それを克服するためのきっかけにしなければならない。