沖縄論考

日本と沖縄のことについて考えていきます。

鶴保発言の問題点

「『土人』発言問題」に関する鶴保沖縄相の発言について考えてみたい。
同氏の一連の発言は以下である。

 

「これを人権問題だと捉えるかどうかは、言われた側の感情に主軸を置くべき」
「県民の感情を傷つけたという事実があるなら、しっかりと襟を正していかなければならない」
「これが人権問題だと考えるのではなく、これが果たして県民感情を損ねているかどうかについて、虚心坦懐に、つぶさに見ていかなければならない」
「今このタイミングで『これは間違っていますよ』とかいう立場にない」
(2016年10月21日記者会見)

 

2016年11月8日の参議院内閣委員会では、共産党の田村氏の「逮捕権を持つ公務員、警察官が市民を侮蔑したことは人権問題ではないのでしょうか」との質問に対し、

 

「人権問題であるかどうか、第三者が一方的に決めつけるのは非常に危険」
言論の自由はどなたにもあり、状況的判断もある。人権問題の一番のポイントは、被害者、差別発言を受けた方の感情に寄り添うことだが、その感情に対して、誰が、どういう理由でこれが差別であると判断するかについては喧々諤々の議論がある」
「そうした重い判断を、私個人が大臣という立場でこれは差別だと断じることは到底できず、いまもまだ議論は続いているという認識をしている」

 

と述べ、

 

「(「土人」という言葉は)差別的な侮蔑用語以外に使われた例を聞いたことがない」と追及されると、

 

「それこそ私は判断できるものではないと思っている」
「土人という言葉が出てきた歴史的経緯には、様々な考え方がある。現在、差別用語とされるようなものでも、過去には流布していたものも歴史的にはたくさんある」
「そういう意味においても、土人であるということが差別であるというふうには、私は個人的に断定できません」と返した。
 

鶴保氏は11月10日の参院内閣委員会理事懇談会でも、「ある事項が人権問題かどうかについて、第三者が一方的に決めつけることは非常に危険ではないか。言われた側の感情を主軸において判断するべき」と持論を繰り返し、翌11日の記者会見でも、発言の撤回に応じない姿勢を示した。

 

同氏の主張を整理すると、以下のポイントにまとめられる。

 

①「土人」発言が人権問題かどうかは第三者には判断できない。
②人権問題かどうかを判断するには、差別発言を受けた人の感情を主軸に判断すべきだが、その感情に対し、誰が、何を根拠に判断するかは様々な議論があり、自分には判断できない。
③現在、差別用語とされるようなものでも、過去には(差別発言ではないものとして)流布していたものもたくさんあるため、それが差別かどうかは判断できない。
④(大臣という)自分の立場では判断できない。

 

要するに、「自分には『土人』発言が人権問題もしくは差別なのかどうか判断できない」と繰り返し主張している。

 

結論から言うと、鶴保氏が上のように考えているならば、彼は閣僚として不適格であるだけでなく、政治家として失格である。このような人間を国民の代表として選んだ我々は、その不明を恥じなければならないし、この考え方を改めない限り、次の選挙で彼を当選させてはいけない。

 

鶴保氏の一連の発言の何が問題か。

 

彼は繰り返し、「判断できない」と述べているが、そもそも、ある言動が「差別」であるかどうかは、誰かが判断するものである。差別とは、温度計や体重計で測れるようなものではない。今回の件で言えば、「本土」から派遣された機動隊員が沖縄人に対して、「土人」という言葉を吐いた。それが差別であるかどうかは、我々が見て「判断する」のである。

 

その判断の根拠には、「差別発言を受けた側」「言われた側」の感情がある(鶴保氏本人も似たようなことを言っているが)。我々は、「土人」呼ばわりをされた沖縄の人々の感情を汲み取り、推察し、その声に耳を傾け、そこからその発言が差別であったのかどうかの判断材料を得る。

 

同時に、「土人」という言葉が過去に使われてきた歴史的背景と、現在「土人」という言葉が、どういう場面で、どういう意図で使われているかも判断材料となる。

 

それで言うと、「土人」という言葉は、少し歴史を紐解けば、あるいはネット空間をのぞいて見れば、歴史的に「本土」の人間から沖縄人やアイヌ人に対する蔑称として用いられてきたという事実があり、現在でも、沖縄人に対する蔑称として一部のネット空間で用いられていることは、容易に確かめることができる。

 

当然ながら、これは鶴保氏にも確かめることができる。にもかかわらず、「できない」と主張するのは、実のところ、「できない」のではなく、「やらない」「やろうとしない」だけである。

 

もしかすると、鶴保氏は、「差別かどうかを判断する客観的な基準がない」「差別された側の感情を判断するための客観的な方法論がない」ことを理由に、「誰がどういう理由で判断するのか定まっていない」、故に「判断できない」と言っているのかもしれない。

 

が、先にも述べたように、ある言動が差別であるかどうかを判断する客観的な基準や方法論などそもそも存在しない。だからこそ判断が必要なのだ。ある言動が差別かどうか判断し、「反対し、非難し、やめさせる」か、それとも「賛同し、擁護し、守る」のか、どちらかを決めなければならない。

 

差別が疑われる言動に対して、誰かが「これは差別だ」と判断しない限り、その言動が「差別的行為」として問題になることもなければ、批判の対象になることもない。

 

つまり、「判断を保留する」「判断しない」ということは、仮にその言動が差別であり、それによって傷ついている人がいた場合、その差別を結果的に擁護し、差別者が被差別者を差別するがままにし、被差別者の被害、傷を拡大させることに加担する可能性がある。

 

だから、差別が疑われる、「差別ではないか」と議論されている事柄については、それが差別なのかどうか、自分なりに材料を集め、判断し、それに対する態度を明らかにしなければならない。差別だと判断したなら、その言動を非難し、やめさせなければならないし、差別でないと判断したなら、その言動を擁護すればよい。

 

特に、鶴保氏のような政治家、まして閣僚は、権力者であり、国の政治的意思決定に直接的な影響力をもち、その言動は、国民世論に対しても一定の影響力をもつ。鶴保氏が、差別を許さない立場を採るのか、差別を擁護する立場を採るのか、あるいは、「判断しない」ということを通じて、差別と疑われる行為を野放しにする立場を採るのかは、一民間人の立場にはない、重要な意味と影響力をもつ。

 

そのような重要な立場にありながら、「差別かどうか」の判断を故意に保留し、判断を下し、下した判断に対してアクションを採るという責任から逃れ続けている鶴保氏には、閣僚、政治家という権力者の立場に立つ資格はない。

 

ついでに言うと、鶴保氏は、「人権問題かどうか第三者が一方的に決めつけるのは非常に危険」と述べているが、「土人」という言葉が、「『本土』の人間対沖縄人」という対立構造の中で、「本土」の人間から沖縄人に対する蔑称として使われてきた歴史を顧みれば、我々「本土」の人間は決して「第三者」ではないばかりか、当事者であり、当事者として、これが差別かどうか、責任をもって判断しなければならない立場にある。

 

我々は、差別という人権に関わる問題に対する「判断」から逃れ、結果的に、差別に加担するような人間に、政治を任せてはいけない。